『断る』突きつけられたのは、拒絶の響き。今日のことを思い返せば、いささか性急すぎたと反省する。彼を、守るべきものだというのに、出会った瞬間に理性を失って、話も何もなく、抱いた。まず、そこを謝らねばならなかったのに。それなのに、大学の敷地で彼を見つけた時だ。彼の黒い髪から、昨夜、己の指で梳いたそこから、ほんのわずか匂った、他のαの存在に、腹の底が風穴を開けられたようにぽっかりと、虚ろを生んだ。今すぐにでも上書きしなければと騒ぐ本能に動揺し、口にできたのは話をしようという言葉だけ。知り合いのホテルについてきてくれた彼に、その男とはどのような関係なのかと、問い詰めたい衝動を抑えつけていた。そのせいで、冷静に話などできなくて。そんな杏寿郎に対して、彼はとても理性的だった。準備してきていた抑制剤を飲んでいたようだが、感情の起伏がそもそも少ないように見える。杏寿郎の知るΩは、優しそうだったり、起こりやすかったり、おどおどしていたりと様々だったが、共通して感情豊かで、ころころと表情を変えるものだったが、彼が乱れたのは二度。再会した夜と、杏寿郎が捕まえた時だ。『話がそれだけなら俺は行く』αは自覚的にフェロモンを発することができる。狙った獲物を誘惑するのだが、杏寿郎は今までしたことはなかった。けれど、あの瞬間、逃げようとする冨岡に対して、本能的にそれをやった。効果は覿面。逃げようと立ち上がった彼は、動けず、たちまち瞳を潤ませた。熱が灯りだした体からは、甘い匂いが立ち昇り、あれは、本当に美味しそうだった。喰らいたい。その苛つく匂いを上書きし、白いうなじに噛みつきたい。ぐらつく熱に浮かされるように、契約を申し込んだ。断られるとは、おもっていなかった。彼は、自分を求めていた。自分もまた、彼を求めていた。それなのに。『断る』溢れだしそうな青い瞳が、途端に凍える冬の湖面に変わる。あの声が、あの瞳は、母に似ていた。あの静けさは、母と同じだ。父が番のもとに行く時、弟がΩだと分かった時、母の眼差しと同じ。痛みを抱えて、それでも誰かを想う、強さを秘めた瞳。なにが、彼をそうさせたのだろう。母は家族のためだった。彼にも、そのような相手がいるのだろうか。もしや、それがあの匂いの男か。いや、それならば何故、番になっていないのか。「…はぁ…」湯気に混じってため息を吐き出した。水面の白に、理由を告げずに立ち去った彼の、首の白さを思い出す。どうやら運命というものは、簡単には手に入らないようだった。