つい昨日まで、空はクライアに対してイシュカのイの字も口にしなかった。それが今日になって、急に洞穴を引き払う旨を伝えてきたのである。 クライアを気づかってのことではあるまい。空はクライアに対して乱暴な真似は(稽古のときをのぞいて)しないが、だからといってクライアたちがイシュカでやったことを許したわけではない。それは言動を見ていればわかる。 クライアが空の意に背けば、即座に斬りかかってくるだろう。 あえてクライアを鬼人の子に近づけることで、クライアの真意を見定めようとしているのかとも思ったが、それでは鬼人の子を危険にさらすことになる。 鬼人の子に対する空の振る舞いを見れば、それはないだろう。 実のところ、クライアはこうしている間にも空が浴室に入ってくる可能性を考えていたのだが――ちらと浴室の入り口を見ても、扉はぴくりとも動かない。どうやらこの推測も外れたようだ。「これも無駄になりましたか。とんだ独り相撲です」 苦笑しつつ、結った髪の毛の中から細い剃刀かみそりを取り出す。 浴室に入ってからはじめて、本当の意味で肩の力を抜いたクライアは、ほぅ、と安堵の息を吐いた。 そのまま天井を見上げ、静かに紅い目をつむる。「……クリムトに怒られちゃいますね。何で敵の家でくつろいでいるんだ、って」 楽しげに口元を緩めながら、クライアはもう一度、小さく息を吐き出した。