「…さん、丸山さん」 ぼんやりした視界の中、聞き慣れない声が隣から聞こえる。ちょっとして、肩を揺さぶられる感覚に少しずつ意識が晴れていく。顔を上げると、険しい表情の先生が教科書を持ったまま鋭い目付きでこっちを見ている。「す、すいません!」「新学期早々居眠りとはいい度胸ね。三十八ページの五行目から読んで」「はい!え、えっとぉ…」 周りから聞こえる小さな笑い声。顔が火照るのを感じながら教科書を読む。「…はい、そこまで。お昼前で眠いのはわかるけど、もうちょっと頑張ってね」 どうにか乗り切った…のかな?そうだ、隣の席の子に、起こしてもらったお礼を言わないと。「氷川さん、ありがとっ」「別に、当然のことをしただけですから」 氷川さんは事も無げに言って、すぐ黒板に視線を戻す。真っ直ぐに伸びた背筋と凛とした表情が、見とれてしまいそうなほど綺麗だった。 氷川さん。下の名前は『紗夜』で、『夜』の字が持つクールなイメージにぴったりな人。風紀委員に入っているから朝の校門で何度か見かけたことがあるし、成績上位者の掲示では常連さんだ。 これがわたしと氷川さん…紗夜ちゃんとの初めてのやりとりだった。「紗夜ちゃん、お昼食べよっ」 わたしが呼びかけると紗夜ちゃんは小さく頷いて、机と椅子をわたしのと向かい合わせにくっつける。どういうわけか、あれから紗夜ちゃんと一緒にお昼を食べるようになっていた。「丸山さん、三時間目の数学でまた居眠りをするところでしたね」「うっ」 ぎくりとするわたしを見て紗夜ちゃんが溜息を吐く。「遅くまで起きていたんですか?」「う、うん。覚えたい曲があって」「曲?丸山さん、何か音楽をやっているんですか」「うん。アイドル……の、研究生」「研究生、つまり見習いでしょうか」「そう、見習い。…今年でデビュー出来ないと卒業しなくちゃいけないんだ。だから、頑張らないと」 わたしが噛みしめるように言うと、紗夜ちゃんは丁寧にお箸を動かしてお弁当を食べる。紗夜ちゃんは絶対、口にものを含んだまま喋らない。会話がひと段落するタイミングで食べて、食事がひと段落するタイミングで話す。「頑張るのは良いですが、その結果学業に支障が出てはいけません」「はい、気をつけます…」 同い年なのに、先生に怒られてるみたい。だけど紗夜ちゃんは勉強もスポーツもすっごく得意で、しかも風紀委員まで務めてるから全然気にならない。というか、むしろ納得してる。「紗夜ちゃんって凄いよね。勉強もスポーツも得意で、風紀委員もやってるし…。わたし、尊敬してるんだ」「……」 おかずを掴む途中のお箸をぴたりと止めて、俯きがちに黙り込む紗夜ちゃん。「あ、あれ?わたし何か変なこと言った…?」 紗夜ちゃんは机に視線を落としたまま、ゆっくり話し始める。「あくまで仮定の話ですが…どれだけ努力しても敵わない、並ぶことすら出来ない人がいるとします。そしてその人は、全く努力していないとします」 いつも通りクールだけど、奥底から強い何かが滲む口調だった。「圧倒的な才能の前では、努力しても無駄だと思い知らされる。そんな相手がいたら、丸山さんはどうしますか」「どうする、って…」 夜みたいに暗い色を含んだ瞳がわたしを見据えて、声にも表情にも今までにない熱を感じる。紗夜ちゃんがこんな風に話すのは初めてだった。(才能の前では、努力しても無駄…) わたしも、そう思うことが何度もあった。わたしより後から研究生になった子が、わたしより先にデビューして活躍する。そんな光景を、何度も見てきたから。だけど、それでも。「…努力、するしかないよ」 紗夜ちゃんの瞳が、微かに揺らめく。「誰かみたいになれなくても、誰かに敵わなくても…一歩ずつ進んでいくしかないよ。努力すれば、いつか夢は叶うから」「……」