未だ梅雨明け宣言を聞かない東京だが、学生は夏休みに入り、街にはポケモン探しの人々が闊歩している。
しかし、日本の夏はやはり妖怪と幽霊である。京都の寺では毎年恒例の幽霊掛け軸や百鬼夜行の画図が公開され、涼を求めて人々が集まる。怖いもの見たさは人間の本質的なものなのだろうか?
東京のある博物館で妖怪の特別展示会が行われていたので行ってみた。春画と同じで、百年も二百年も経っているのに色鮮やかな原画が残っている。“ つくもがみ ” と云う妖怪の一団があり、これは百年を経た様々な道具が妖怪になったものだ。元が道具なので、これはザルだとか、これは箒だとか見れば何となく解る。
だが、百鬼夜行になると訳の分からないモノがいっぱい出てくる。作者は何をモチーフに描いたのかなと不思議な思いに捕らわれる。電気がなかった時代、夜は真の暗闇が存在していた。その頃の人々は視覚以外の感覚が発達していた筈だ。ちょっとした物音、気配、水面の揺らめき、枝の影…恐怖を掻き立てる現象があちこちにあったのだろう。現代人よりも感性が優れていたのではないかと思う。
妖怪は動物や道具、自然現象に起因しているが幽霊は “人 ” の形を持って描かれている。しかも女性が圧倒的に多い。
女は幽霊になっても怖い、いや怖いから幽霊になるのか?
妖怪コーナーから幽霊コーナーになると空気の質やムードが一変する。暗い背景に微かな線で描かれた幽霊が秀逸だった。例え絵だと分かっていても一人の時、絶対に部屋には飾りたくない
本来、幽霊は怨みを持った相手の所に出るのだから、それ以外の人には何の効力もないのだが、それても怖い。これを描いた作者は深夜一人きりで僅かな蝋燭の灯りの下で描いたのだろうか?どう考えても真っ昼間、人がガヤガヤしてる環境では描けるとは思えない。
夜になっても暗くならない環境下の現代人にとって、妖怪は夏の娯楽になってしまったが、人妻不倫旅行の会話部分だけを文章に起こせば、人妻の怨みつらみに満ちた現代の “ 百物語 ” になるかもしれない。そして、最後の百番目を語り終えた時そこに現れるのは