もはや布として機能しないそれを、ぽとりとソーサーの上に落とす。ハンカチの成れの果ては、高密度になりすぎたゆえか水分を吸い上げる様子はなかった。「…………」 恐ろしいものを目の当たりにしたかのような顔つきで、ルフは沈黙している。 私がニコリと笑うと、彼はびくりと体を震わせた。……大げさな反応ね。「わたくしのクラスメイトから、あなたに関する話を耳にしましたわ」「……クラスメイト?」「アニス・フェンネルという名前の女子です」 わずかに目を細めたルフは、「ああ」と思い出したかのような声を上げた。「ダンスパーティーで知り合った女の子だね。清楚でかわいらしくて、思わず一目惚れしてしまったんだよ。だから声をかけてみたんだが……残念ながら、どうも彼女は乗り気でないようだった」「惚れやすいお方ですのね」「美しい女性には目がなくてね、ははは」 笑いを浮かべるが、どこか苦笑交じりのようにも見える。冗談か本気なのか、現状ではいまいち判断しづらかった。 そんな会話をしているなかで、ふいに早足でこちらのテーブルに寄ってくるメイドの姿が目に映った。アイリである。手にしたお盆の上には、タオルやおしぼりが乗せられていた。「お、お待たせしました。こちらをお使いください」 おそらく遠目でも、ルフが紅茶をかけられる姿が見えたのだろう。トラブルを確認してから、すぐに拭くものを用意してきたようだ。 ルフはタオルを受け取りながら、優しげな声色で感謝の言葉を口にした。「……ありがとう。申し訳ないね、アイリ」「いえ、とんでもございません……」 あらためて頭と上着をタオルでぬぐい、安堵したようなため息をつくルフ。それを眺めつつ、私も濡れた手をおしぼりで綺麗にした。 そして、テーブルに飛び散っていた水滴なども拭き取ったところで――「――新しい紅茶を二つ、いただけないかしら?」 使用済みのティーセットと布巾を回収するアイリに向けて、私はそうお願いした。すると彼女は驚いたような様子で、ルフのほうへ目を向ける。どこか心配そうな視線だった。「……お願いできるかな、アイリ」「は、はい……承知いたしました」 彼女は礼をすると、ホールの出口のほうへと去っていった。この時間なら一階の給湯室でつねに湯を沸かしているはずなので、そう時間も経たずに紅茶もやってくるだろう。「――あのメイドの子とも、仲はよろしいのでして?」「ふふっ……かわいい女性とは誰でも親しくなりたいタチでね」「あらあら。じゃあ、わたくしとも親しくなりません?」「…………」 こらこらこらこら、なんでそこで黙るのよ? 見目麗しい美少女が誘っているというのに、まったく失礼な男ね!「――わたくしでは不満かしら?」「いや……きみには婚約者がいるだろう?」「あら、ご存知でしたのね」 なるほど。まあフォルティスとは故郷の仲があるので、私のことも知っていたのだろう。さすがに知人の婚約者が相手では、憚られる気持ちがあるのかもしれない。「ご心配なさらず。あなたが相手なら、本気で付き合っていると思う人間もいないでしょう」「……たしかに、きみの言うとおりだ」 ルフは不敵さを含んだ笑みを浮かべた。 学園中の女子に声をかけまくっている彼ならば、誰が見たって真剣に付き合っているとは考えないだろう。先ほどの二股場面を見るかぎり、下級生の間にもルフ・ファージェルの悪名が広がるのは時間の問題だといえた。「――ファージェル様は、どんな女性がお好きですの?」「どんな、かぁ……。そうだね……優しくて控えめな女の子、かな? きみのお友達のフェンネル嬢は、ボクがわりと好きなタイプかもね」 ちょっと明るすぎるかもしれないけど、とルフは言葉を付け足した。たぶん慎ましい感じの女の子が好みなのだろう。アニスは大人しそうな外見だが、性格に積極的な一面があるので、その点は微妙に合わないのかもしれない。「そう言う、きみのほうはどうなのかな?」「わたくしですか?」「フォルティスのような優男が好みなのかい?」 ルフは笑いながら尋ねた。 優男? と怪訝な気持ちを抱いたが、そういえばルフは学園に入ってからのフォルティスとは、たいして交流していなかったはずだ。今の彼が男らしく成長していることを知らないのだろう。 私は唇を歪めて、ルフの質問に答えた。「――強い雄おとこなら、誰でも大好きですわ」 それは肉体的でも、精神的でもかまわない。 フォルティスも、レオドも、そしてアルスだって。向上心を持って力を伸ばそうとする人間は――私の大好物だった。 現状に甘んじることなく、上を目指す在り方というのは美しく魅力的だ。 そういう男が――私は好きだ。 思わず……遊んでやりたくなる。導いてやりたくなる。もっと上へ――少しでも私のいる方向へと、誘いたくなるのだ。 ――あなたは強くなれる男かしら? ルフ・ファージェルよ。 私の視線に射抜かれたルフは、緊張したような表情を浮かべていた。一見すると女好きの軟弱な男だが――その本当のところはどうなのか。 もし、強くなれる素質があるというのなら――「…………あ、あの」 と、その時。 テーブルのそばで、新しいティーセットを持ってきたアイリが、おそるおそる声をかけてきた。無言で見つめ合っていた私たちの姿に、困惑したような様子だった。「お茶をお持ちしましたが……」「あら、ありがとう」 私はルフから視線を外し、彼女から紅茶を淹れてもらった。カップを受け取り、砂糖を少量だけ入れて口をつける。温かいお茶はやはり美味しかった。「どうぞ、ファージェル様」「……ありがとう」 ルフも紅茶を受け取り、礼を口にする。その声色はどこか穏やかなようにも聞こえた。 アイリが去っていったのを確認してから、私はゆっくりと口を開いた。「ファージェル様は、いま付き合っている恋人はいらっしゃらないのですか?」「うん? ははは……キャロルにもアリアにもフられてしまったからなぁ……。新しい女の子を探さないとね」「なるほど」「……きみのお友達に声をかけるのは、迷惑かな?」 ルフは私の顔色をうかがうように言った。お友達、というのはアニスのことを指しているのだろう。 おそらく彼は、私がアニスの件で接触してきたと考えているのだ。彼女に関わるな、とでも言われることを予想しているのかもしれない。「――アニスよりも、いい相手がおりますわよ」 だから、その発言は意外だったのだろう。ルフは眉をひそめて、こちらを見つめてきた。「……ほかの女の子を紹介してくれるのかい?」「ええ」「そりゃ、ありがたいけど……どんな人なのかな?」「あなたの目の前にいる女性ですわ」 その直後、ルフの体が凍りついた。 何を言われたのか理解できないというように、無言で固まっている。それほど想定外だったのだろうか。私のほうから誘ってくることは。「わたくしも――いい男は好きですの」 笑みを浮かべると、ルフはごくりと唾を呑みこんだ。その瞳は動揺に支配されている。彼の体内から発せられる、高鳴る心臓の音――それは恐怖と戦慄の証だった。「まさか、“かわいい女性”からのアピールを……断るつもりはありませんよね?」「だ、だけど……きみには婚約者が……」「あらあら、あなただって“二股”をしていたでしょう?」「それは、その……」 私は腕を掲げると、その手を拳の形へと変えた。 そして――強く握り込む。 この手から発せられる握力。それはすでに、ハンカチを返した時に彼も視認していた。これが自分に向けられれば、どうなるかも――わかってしまっているはずだ。 私はニッコリと、満面の笑みを作った。――右手に破壊的な力を宿しながら。 怯え、言葉を失うルフに情熱的な視線を送りつつ。「――次の週末に“デート”でもいかがですか、ファージェル様?」 ――その答えは、一つしか選ばせなかった。>目次