紗夜は、3年A組での恒例の昼食の時間を思い出す。 迷子の時間を語る花音の表情は、とても柔らかかった。 己の過ちを恥じらいつつも、それでもその行為を語る事に対して笑みを途絶さなかった。 その彼女の柔らかさが、彼女が迷子になること以上に、紗夜には理解ができなかった。「だから、松原さんのことが、分かりたかったんです。これから一年間を過ごす、級友なのですから」 千聖は、今日一番の驚きを感じていた。 彼女が氷川紗夜という人物に抱いていた印象を、大きく揺さぶられている。 平常ならすらりと出てくる気の利いた返しも、何一つ口に出てこなかった。 紗夜は、さらに言葉を続ける。「あなたのこともです、白鷺さん」 千聖は、紗夜の真っ直ぐな目が、自分に向けられていることを感じた。「日菜から聞いている貴女の人物像からは、あなたが休日に松原さんと一緒に迷子になって過ごす様子が理解できなかった。だから、日菜からの伝聞じゃない、あなたのことが分かりたかったんです」 千聖の今日の驚きの最高値は、瞬時に塗り替えられた。 紗夜の言葉は、あまりにも直接的で、直球的だ。 淡々とした表情から放たれるストレートな言葉に対して、千聖には抗体がなかった。 照れと焦りが混ざった感情を隠しながら、千聖は頭を働かせる。 他人のことが知りたいという気持ち、その気持ちが生まれるもとになる情動。 千聖には、それを簡潔に言い表す言葉に心当たりがあった。「……つまり、紗夜ちゃんは私と仲良くなりたかったのね」 ちょっとした意地の心と、こころからの微笑みを添えて、その言葉を紗夜に送る。「そう、なんですかね」 真っ直ぐだった紗夜の瞳が、ふらりと逸れた。 カウンターのように送られた千聖の言葉は、紗夜を照れさせた。 夕日のように染まった頬を見て、千聖は声を漏らして笑った。 そんな千聖の姿を見て、紗夜は一瞬口を尖らせたが、すぐに口元を緩めた。「ごめんなさい、よく分からなくて……私は、その、距離の詰め方が苦手なもので……」 そう言って、紗夜は口元を右手で隠しながらそっぽを向いてしまった。 拗ねるのも丁寧な彼女の姿が、千聖には可愛らしく見えた。 千聖も、自分自身が他人と距離を詰めるのが上手ではないと思っていた。 他人に対して一線を引きがちで、能動的に距離を詰めに行くことはあまりなかった。 ただ、紗夜とは段階が異なる。 彼女は、距離を詰めにいく方法が、あまりにも不器用だ。 だけど、その不器用さは、千聖にとって嫌なものではなかった。 様々な面で冷静になった紗夜は、今日の旅路を終わらせることを決意した。「私の我が儘で、このような場所まで振り回して申し訳ないです。そろそろ、駅に帰りましょうか」 そう提案して、地図を開こうとスマホを取り出した紗夜は、あることに気が付く。 ボタンを何度か押しても、画面が真っ暗から変移してくれない。 すっかり忘れていたが、そういえば録音アプリをずっと稼働させていた。「すいません、スマートフォンの電池が切れてしまいました。白鷺さんのグーグルマップでルートを確認させてもらってもよいでしょうか」「いいえ、その必要はないわ」 紗夜の申し出を制止しながら、千聖は日傘をたたむ。 収納された白い傘を左手に持ち替えつつ、右手で前方のビルを指さした。「あそこに一際高いビルが見えるわよね、屋上に桃色の看板があるビルよ。あれはね、この街の駅ビルなのよ。つまり、あのビルを目指して歩いて行けば、駅に着くわ。この方法が一番簡単よ」 紗夜は目を見開いた。 右手の人差し指を掲げる千聖の後姿を、呆然と見つめる。「……何故、そのようなことを知っているのですか?」「実はね、前にこの街に花音と来たことがあるのよ。来たというよりは迷い込んだんだけどね。電車で、乗り間違えをしちゃって」 乗り換えを間違えた結果辿り着いてしまうような、そんな辺境の駅。 そこにたどり着いてしまったことが、かつて実際にあったのだ。 しかし、そのことが判明したところで、紗夜の疑問は終わらない。「どうして、黙っていたのです? 知っていたのなら、白鷺さんはこのような徒労に付き合わなくても」「あら、徒労なんかじゃなかったわよ?」 紗夜の言葉を止めるように、千聖は振り返りながら微笑んだ。「それに、いいじゃない」「だって、今日は私は、オフの日だったのだもの」 上機嫌な千聖の笑顔に、紗夜は見入った。 少しの静寂の後、紗夜はふぅと小さく息を吐く。 顔をあげた彼女の表情にも、笑みがこぼれていた。「どうやら、私は白鷺さんの事を誤解していたようです」「あら、そうだったの?」「私達、実は似たもの同士だったんですかね」「ふふふっ、私もそう思うわ」 二人は、高々とそびえたつビルに向かって歩み始めた。 ビルの窓ガラスに夕日の光が反射して、きらきらと輝いている。 いつのまにか、二人の歩調は一致していた。「この街にはね、駅前に素敵な喫茶店があるの。紗夜ちゃんさえよかったら、この後一緒にお茶でもどうかしら?」「そうですね、そのような予定はなかったですが……ええ、是非」