目の前が、血のような赤に染まる。
関節に釘を打ち込まれたような痛みが脳までもを侵し、意識はぐらぐらと混濁した。腕も、足も動かない。ラケットが痺れた手の平からデコターフコートに落っこちて、硬い音を立てた。その先では、沢山の人々が蔑むような視線で俺を見ている。恐怖と怒りが増幅され、全身が燃える。それなのに、体が動かない、何の抵抗もできない。
「うわっ……!」
自分の声に驚いて目が覚めた。全身が鋼のように緊張して、ぎしぎしと軋んでいる。
生成り色の天井、フローリング、カーテン、本の山。
即座に首と目玉をぐるりと回転させ、ここが試合会場でないことを確認する。
心臓が早鐘のように打ち、呼応するように頭もずきずきと傷んだ。肌は臆病な鶏のように総毛立ち、爪や髪の先にすら違和感を感じる。
「は……は……」
こんな夢、今までだって何度も見てきた。
もっとキツイ時期だって過去に数えきれないほどあった。
こんなの、どうってことない。
自分の感情すら制御できなくて、どうする。
「は……」
深呼吸をゆっくりと繰り返していると、段々と筋肉は元のリズムを取り戻していった。
爪先から頭まで力を入れて、次に即座に力を抜き弛緩させる。
布団の中で、手と足の指を開いては閉じる。
そうやって決まった手順を踏んでいると、段々と頭もはっきりとしてきた。
「ばーか……」
くっくっく、とバカバカしくなって笑いがこみ上げてくる。何怯えてるんだか。
俺は勢い良く布団を剥ぐと、音を立てずに注意しながら引き戸を開けた。忍び足でキッチンまで行き、暗闇の中で籠からグラスを掴み、蛇口から水を汲む。
一気に飲み干す頃には、完全に目も頭も冴えていた。
水が喉の渇きを癒やし、その現実感をもって幻想を打ち消す。
グラスを片付けて、寝室に戻ろうと振り返った。そして、ふとソファの方を見やると其処に柳さんの姿はなかった。
(えっ!?)
びくりと、全身が震え上がる。
思わずソファに駆け寄って確かめる。其処にはブランケットすら無かった。
暗闇のままの部屋をぐるりと見回すが、影すらない。コンビニにでも行ったのだろうか。それにしてはブランケットがないのはおかしい。一体どこに行ってしまったのだろう。まさか、本当に消えてしまったのか。
まるではじめから彼の存在なんかなかったかのように、気配が消えている。
フローリングの床が、氷みたいに冷たい。
「柳さん!」
俺は夜中にもかかわらず腹の底から彼の名前を呼んだ。
「どうした」
「へっ?」
カーテンが揺らめき、からりと音がして、バルコニーに繋がる引き窓が開いた。
「うわっ!」
「お前少し静かにしろ。今、夜中の二時だぞ」
柳さんは少しだけ溜息を付いて、右手に挟んでいた煙草を、もう片方の手に押し付けた。左手には、小皿の上にアルミホイルを重ねたものが用意されていた。
「……っくりしたー……」
はあ、と肺の中の空気をすべて出し切ると、凍っていた全身の血液が正常に流れ始めたようだ。
俺は気が抜けて、そのままぼすっとソファに体重を預けた。
「こちらこそ吃驚した。いきなり何を叫ぶのかと」
彼はブランケットを肩に掛けていた。バルコニーは寒かったのだろう。閉じられた窓の周りには、冷え込んだ秋の空気が漂っている。
「煙草吸ってたんですか」
「うむ。一応気を使って外に出たのだが、余計な心配をかけてしまったようだな。すまなかった」
「いえ、こちらこそ、大きな声出してすみませんでした」
柳さんはうん、と頷くとソファに戻ってきた。
「眠れないのか?」
「あーまあ、そうですね、今日はまだ時差ボケもあるし。しょうがないっす」
「そうか……」
柳さんはなんとなく居心地の悪い表情をしていた。
なんだろう、暗闇に浮かび上がる目元に違和感を感じる。
こちらがそれに気がついたと分かったのだろう、彼は顔を逸らした。
「どうしたんスか?」
俺はその顔を追って、視線を合わせようとした。
「いや、何でもな……」
ない、と言いかけた言葉は途中でぷつりと途切れた。
深夜二時の静寂がすべての音を奪い去ったのかと思ったが、違う。
その時、彼の瞳からすうっと一筋、光るものが伝った。
「え」
涙だ、と思った時には、それは透明の雫となって顎から落下した。
彼は表情を変えなかった。目を見開いたまま、固まっている。
しかし、その頬には一筋、また一筋と光が流れた。
「やなぎ、さん」
ぽたり、ぽたりと降りだした雨のようにブランケットに染み込まれていく。
俺は、ただただ驚きと、そして、少しの幸福に包まれていたのだった。目の前で、愛する人が泣いているというのに。
「何で、あんたが泣くんだよ」
手を伸ばして、その濡れた頬に触れる。
親指で眦の辺りを拭っても、後から後から泉のように溢れて止まらない。
「もしかして、さっきも、泣いてたの?」
そうか、バツの悪そうな顔をしていたのはそのせいか。
俺に悟られないように外で、わざわざ見つかった時のために煙草なんて理由を作って。だから、彼の手には間に合わせの灰皿しか無かったのだ。この部屋に入った時も、部屋から煙草の香りは少しもしなかった。
「柳さんって、結構泣き虫ですよね」
答えは無かった。ただ涙の根源を閉ざすように、そっと瞼が降りた。濃い睫毛が濡れている。
「俺は大丈夫ですよ。さっきあんたが言ったじゃないですか」
「うん」
そのまま顔を寄せた。そうすることが、一番正しいように思われた。
濡れた頬をそっと舌で舐めとると、それは真冬の海のような味がした。
柳さんは黙ったまま、ただ言葉もなく、目を閉じていた。
いつか、この人の涙を拭いたいと思っていた。
もしもこの人が辛い思いに声を失ってしまうようなことがあれば、その時に側にいられればいいと。
頬から舌に顔を移動させて、唇を舐めた。その瞬間、彼は少しだけ震えた。
「いいですか」
これを訊くのは卑怯だと自覚している。でも許されていることを、確認したかった。
柳さんの唇は戸惑うように開かれ、俺の下唇をおずおずと舐めた。
許された。
俺は、顔を傾けてもう一度触れた。お互いの開かれた唇に、さらに口吻は深くなった。煙草の苦い味を舌先で感じながら、溶かすようにすり合わせていく。
「ぁ……」
と柳さんの喉奥から喘ぐ声がした。じんと首の後ろが痺れる。
頬にあった手を首に下ろし、鎖骨と肩を撫で、そのまま背中に滑らせた。こんなに細い体だっただろうか。いつも見上げていたばかりの長身を、俺はいつのまにか、この腕で抱きしめることができるようになっていた。
「俺、ずっと柳さんにこうしたかったんです。もう、ずっと前から」
柳さんは、うん、と無言で頷き、俺の背中に手を伸ばしてくれた。
……
先ほどの酷い目覚めが、遠い過去の記憶に感じるほど、心は凪いでいた。
俺は彼の手を取って立たせ、寝室へ歩いた。
五感が研ぎ澄まされ、裸足が床を踏む音、窓の外で車が走り去っていく音が、いつもよりも鮮明に聞こえる。暗闇の中でも、部屋の様子が隅々まで分かる。触れている指先がその皮膚の感触を脳の細部にまで伝える。
寝室の引き戸を閉めると、不完全な闇になった。薄いカーテンから漏れる外灯の明かりが、ベッドヘッドの縁を照らし、シーツの白が雪原のようにその輪郭を浮かび上がらせている。
俺は、手探りで彼を引き寄せ、そのままベッドに押し倒した。
顔を寄せると、鼻に息がかかる。たまらなくなって、そのまま再び唇を合わせようとした。
「……ちょっと、待て」
啓示のように静止の声が降ってきた。目の前の身体は覆いかぶさる俺の肩をやわく制して、のそりとベッドから起き上がる。
「何」
その優しい手つきから、拒絶ではないことはわかった。
彼は起き上がって俺の横を通り過ぎ、背を向けると、ひたひたと本棚のひとつに近づいていく。
闇の中で目を凝らしてみれば、その本棚の中段には、小さな抽斗が設置されていた。
かたんと頼りない音がして、引かれた所から出てきたのはコンドームと小さなプラスチック製のボトルだった。
「柳さん、それ」
そう問うとこちらに向き乗った彼は、顔を真っ赤にしたまま俯いた。
「劣情を、こんなふうに持て余すのは、初めてだ」
初めて戸惑いの感情を覚えた子供のように、ただ立ち尽くしている。
「先ほどお前はずっと、俺と、そう、したかったのだと言ったが」
言葉がらしくなく辿々しい。羞恥に焼かれているのが傍にいるだけで伝わってきた。
腹から湧き上がる興奮にじりじりと焼かれる。手にじわりと汗が滲んだ。
「俺は……あっ」
動かない様子に痺れを切らして、手首を取り引き寄せた。ぽとりと手の中の物がシーツに放られる。
ベッドに倒れこんできた長身の体は、骨ばって硬くそして布越しの体温がとても温かかった。
「受け容れたいと思っていた。ずっと。お前に負担を強いることは初めから想定していなかった。だから」
ゆっくりと彼の薄い瞼が持ち上げられ、潤んだ瞳とかち合う。それは、今まで見てきたどんな高価な宝石よりも美しく映った。身体が動かない。本当に、このまま石にされてしまいそうだ。
薄い茶色であろうその色は消灯されたこの部屋ではうかがえない。ただぬめりある透き通った光だけがこちらを見ている。
「好きに、していい