クロヒコ」
背後からセシリーさんの声がして、はっとする。
振り返ろうとして、しかしその前に背後から腰に手を回された。
「……セシリーさん?」
「助かりました」
とん、と。
背中の上の方にセシリーさんの額があたった。
「けど、あの登場の仕方はちょっとずるかったです」
「すみません、無我夢中で」
「無我夢中だから、ずるいんですってば」
その調子は拗ねているようでもあり、ちょっと照れているようでもあった。
「無我夢中になって間に合うんなら、いくらでも必死になりますよ」
「……ふふ、ああ言えばこう言うんだから――照れもせずに」
腰に回された手に強く力が込められる。
背中に柔らかい何かが押し当たった。
「セシリーさん、こ、これはさすがに密着しすぎでは……?」
「こういう時はちゃんと、戸惑ってくれるんですけどねぇ」
「は、はい?」
ふっ、とセシリーさんが微笑を漏らした。
「すみません。こうでもしないと、たまにあなたの弱いところが見えなくなって……少し、不安になってしまうので」
「け、怪我の方は大丈夫ですか?」
慌てて身体を離し振り返る。
が、口にした問いへ対する返答はなかった。
彼女は僅かに背伸びをし、俺の左のこめかみ辺りへ手を添えた。
「左目、どうしたんですか?」
俺は今に至る経緯を簡単に説明した。
主に学園へ現れた四凶災と遭遇し、戦ったことについて。
セシリーさんは話を聞き終えると、複雑な心情を覗かせながらうつむいた。
「相変わらず自分のことは二の次なんですね、あなたは」
「はは……というより、状況的にそうせざるをえなかったかなぁ、と。なんといっても、相手が相手でしたから」
「こんなにボロボロになって……それでも、逃げずに戦って。しかも、いつも自分のことは後回しで。単なるお人好しを、越えています」
視線を落とす。
「誰に対してもこうってわけじゃ、ないですけどね」
「ふーん」
両手を後ろで組み、セシリーさんが上体を寄せてきた。
何やら含みのある顔をしている。
「じゃあ……わたしだから、ですね?」
「ええ」
「ふふ、まあそれはそうで――へっ!?」
「セシリーさんためだからこんなにがんばるんです、俺は」
意地悪げだったセシリーさんの表情が、虚を突かれたものへと変化した。
奇妙なジェスチャーを交えながら、途端彼女はしどろもどろになる。
「や、そこは、ほら、クロヒコ、冗談で、ここは普通、ごまかすとか、建前とか――」
ぼしゅぅっ、という効果音でも聞こえてきそうなほどセシリーさんの顔が真っ赤になる。
まるでゆでだこみたいだった。
白い耳を先まで朱に染め上げ、彼女は面を伏せてしまう。
そして緩く右腕を上げると、ぽてんっ、と俺の左肩あたりを平手で叩いた。
「な、何言って……ば、馬鹿っ」
声が若干、動揺めいた震えを帯びていた。
「だ、だからなんであなたはそういうことに限って、真っ直ぐに投げてくるんですか……あれですか? 不意打ち? わざとなの?」
「……本音を言ったまでなんですが」
「もうっ、本音だから困っちゃったんでしょ!」
ぷんむくれるセシリーさん。
俺は安堵しつつ、苦笑した。
「調子は、大丈夫そうですね」
ヒビガミと戦った時のことがあったから心配していたが、直面した戦いのショックはなさそうだ。
倒れているガイデンさんを見る。
ところで、あの人は大丈夫なのだろうか。
「ああ、祖父なら気を失っているだけです。あのマッソという男、祖父を生かした状態で何かしたかったようなので。ですから祖父は無事のはずです……多分」
言ってから、一応セシリーさんは状態を確認すべくガイデンさんのもとへ歩み寄る。
やがて屈んだ姿勢から立ち上がると、俺へ向かって親指を立ててみせた。
よかった。
どうやら無事のようだ。
ガイデンさんを丁寧に横たえると、彼女は俺のところへ小走りに駆け寄ってきた。
「ところでクロヒコ、その姿って禁呪によるものなんですよね? まだ、解かないんですか?」
自分の腕や翼へ一度、視線をやる。
「気味悪い、ですかね?」
「何を馬鹿なことを言ってるんですか。……怒りますよ?」
セシリーさんが腰に手をやり、ため息を一つ。
「それともクロヒコは、わたしが、腕が少し変貌したり羽が生えた程度で気味悪がるような人間だと? だとしたら、落ち込むのですが」
微笑しつつ申し訳ない気分になる。
「ですよね。すみません、セシリーさんはそういう人でした」
直後、俺は冗談っぽい顔で言った。
「けど、実は心の中で『癪に障る』とか思ってたりします?」
「お、思ってませんっ! うぅ……あ、あの時の発言は反省してますから……」
セシリーさんは気まずそうに視線を逸らした後、上目遣いにに尋ねてきた。
「い、意外と気にしてたりします?」
「はは、冗談ですよ。蒸し返してすみません」
「……もー、イジワルなんですから」
恨めしい視線が向けられる。
「わ、悪かったですよ。前にも言った気がしますけど、こういうタイプの軽口を叩けるのって正直セシリーさんくらいだから……つい、ぽろっと」
「……わたしは、クロヒコの特別?」
「最初から、あなたは特別でしたけどね」
「ふーん……」
なんかまんざらでもないって顔をしていた。
最初に出会った時点で、度肝を抜く美しさと尋常じゃない剣技を見せつけられているからな。
そりゃあ特別だ。
セシリーさんは何やら満足げに肩を竦めた。
「ま、他の誰が気味悪がっても、わたしはその程度のことであなたを嫌いになったりしませんから」
ふふんっ、とセシリーさんが得意げな目つきになる。
「なんなら、その腕をこの場で舐めて差し上げてもけっこうですが?」
「意図はわかりますけど、舐めてどうするんですか……絵的にも、なんかまずいでしょう」
「そうですか?」
「はい」
強く頷く。
「誰も見てませんよ?」
「……いや、そういうことではなく」
それからセシリーさんは、表情を改めると、俺の左腕にそっと触れた。
「……さっき、その姿を解かないのかどうかと尋ねたのはですね」
揃えた指の腹を俺の腕に這わせるセシリーさん。
この腕でも、はっきりと彼女の指の感触はある。
「その姿のクロヒコを見ていたら、なんだか無理をしているように映ってしまったんですよ。それで、つい」
勘が鋭い人だ、と思った。
「大丈夫ですよ。何があっても俺、死ぬつもりだけはないですから」
「……そうですか。なら、いいのですが」
少なくとも、まだそのリスクを負う時ではない。
俺は剣を鞘に納めた。
そして、城の方へ首を巡らせる。
「これから俺、キュリエさんを探しに行ってきます」
そう、まだ終わってはいない。
四凶災は四人。
俺が二人。
ヒビガミが一人。
つまりあと一人、残っているわけだ。
まだこの王都から、危険の種は取り除かれていない。
セシリーさんが双剣を拾いに行き、手に取った。
「キュリエは今日、お城に呼ばれていたんですよね? あなたはこのまま、ルノウスレッド城へ?」
「その前に一度北門を経由してから、城へ向かってみようかと」
俺は、自分とキュリエさんが聖樹騎士団から力を貸してほしいと要請されていたことを、セシリーさんに告げた。
ただ、城にいたキュリエさんのもとへ伝達役の団員が到着した頃には、すでに北門の騎士団の包囲網は突破されていた可能性が高い。
四凶災北門突破の報は、王のいる城へは真っ先に届けられたはず。
ならばキュリエさんが、北門へ向かう前にその報を知った確率も高いとみていいだろう。
なので、彼女が一人北門へ向かったかどうかというと微妙なところである。
だが、万が一ということもある。
北門の様子は一応、見てみることにする。
空が飛べればそれほど時間はかからないだろうし。
それにキュリエさんなら、きっと大丈夫だ。
臨機応変に最適解を見つけようとする人だし、何より恐ろしく強い。
俺は、翼を広げた。
「セシリーさんは、どうします?」
「そうですね――」
鞘に剣を納めながら、セシリーさんが答える。
「母やジークたちとも合流したいところですが、マッソの言葉通り四凶災の目的がわたしだとすれば、合流すると母たちにも危険が及びかねません。祖父を近くの民家の中に移した後、わたしは移動して、祖父とは別の建物に身を隠そうかと思います」
四凶災の目的がセシリー・アークライトだったことは、彼女も知っているようだ。
あのマッソという男から聞いたのだろう。
セシリーさんは微笑を浮かべたまま、緩く首を振った。
「まったく戦えないわけではありませんが、この状態では足手まといになる可能性もありますしね。下手に動き回って残る四凶災に見つかって囚われでもしたら、それこそお荷物ですから」
「……俺としては正直、セシリーさんに一緒に来てもらえた方が安心ですけど」
「え?」
「四凶災の目的がセシリーさんなら、個人的には一緒にいてくれた方が、安心するっていうか……それに今の俺なら、セシリーさん一人くらいなら抱えて空を飛べると思います」
「ですが、わたしがいては足手まといに――」
「もし、仮にそうだったとしても」
俺はマッソの死体を見る。
「守るべき相手が傍にいても、守り切る自信はあります」
ベシュガムの言葉が真実であったことが判明した今ならば、この状態で他の四凶災を相手にしても、十二分に勝機はあるはず。
事実、セシリーさんとガイデンさんを守りながらでもマッソという四凶災を圧倒することができた。
ならば、むしろ個人的にはセシリーさんと行動を共にした方が安心できる。
そのことを説明すると、先ほどのマッソとの戦いを見ていたせいもあるのだろう、セシリーさんは意外とあっさり了承してくれた。
で、
「じゃあ、行きますよ?」
「大丈夫ですか? なんだか身体が、強張ってません?」
「大丈夫です。大丈夫な、はずです」
ガイデンさんを近くの民家のベッドに寝かせた後、俺はセシリーさんを両手で抱え上げた。
そして今、俺はセシリーさんをいわゆるお姫様だっこしている状態だった。
ただ、その……互いの身体が、限りなく近い。
首に手を回して掴まっているセシリーさんの顔も、異様に近くて。
強張りを増す俺の身体と相反し、セシリーさんの身体の色々な部位は、とても柔らかくて――
「これは選択を間違えた、かも」
「え? なんですか?」
「セシリーさん」
「はい?」
「落ちないようにしっかりしがみつきつつも、あんまりくっつきすぎないでください」
「けっこう無茶な要求じゃないですか、それ!?」
「……行きますよ」
「ま、待ってクロヒコ、どの程度の力加減で掴まれば……って、うわっ!? これは駄目です! しがみつきますよ!? けっこうがっつりと、しがみつきますからね!?」
南無三。
事態は急を要する。
ここは、我慢するしかあるまい。
上目遣いで、気がかりそうに見上げてくるセシリーさん。
「く、クロヒコ、苦しくないですか?」
「ある意味、胸が苦しい」
「……そこそこは、あるつもりなんですが」
「いや、そういう意味じゃないですから!」
セシリーさん、やっぱり調子悪そうだな……。
「じゃあ気を取り直して……行きますよ?」
「は、はいっ! はなさないでくださいね!?」
表情を引き締め、ぎゅっと密着してくるセシリーさん。
先ほどの様子からすると、ちょっと怖いのかもしれない。
……ま、もうどうにでもなれ。
今はキュリエさんに会うことが最優先。
そうさ。
照れている場合じゃない。
観念した俺はセシリーさんの腰に回した手にしっかり力を入れ、空へ――
「楽しそうで、何よりだな」
「え?」
その声は、俺とセシリーさんから同時に発せられた。
見ると、
「きゅ、キュリエさん?」
馬に乗