顔を上げられずにいる間も、ずっと彼の視線を感じていた。 そうなると顔を上げたくとも上げられない。 どうしたものかと困り果てていると、ぽつりと彼が呟いた。「――朝餉のときはすまなかった」 なんのことか分からなかった。 朝餉のとき、と聞けば、思い出されるのは水珠のこと。 彼に謝らなければならない心当たりならあるものの、詫びられる覚えはない。 少なからず驚いて顔を上げる。 彼は手にした矢立を懐へしまっているところだった。「――」 なんのことです、と問おうとしたが、結局声にならなかった。 ただ、彼はその気配を察したようだった。 私の顔を見ると、まるで心中を読みとったようにふと苦笑を浮かべた。「あの場でうまくいなすことができなった――あの者に口で勝てたためしがない故、つい、な……」 水珠の放言をそのままにしたことを詫びて……? 私ははっとした。 あれは私が窘めるべきことであって、彼がこんな風に私に謝ることではない。 筋違いもいいところ。 私の方が先に彼に詫びるべきだった―― 今朝のことだけではない。 これまでだって――そんな心当たりは山ほどある。 それなのに、私は一度だってそうしなかった。「――そ……」「宮?」 言葉がうまく出てこない。 もどかしさに深く吐息をもらしてしまう。 俯いて、唇をかみしめる。 どうして言葉にできないの―― 言いたいことは、伝えたいことは、こんなにあるのに。 彼はそれ以上何も云わなかった。 待ってくれている――私の、言葉を。 そう思うと、焦りにさらに思考が空回りする。「焦らなくていい」「――でも……」 やっと声が出た。 それにはっとして顔を上げると、彼と目が合う。 彼は薄い笑みを浮かべて私の言葉を待ってくれている。 何故かそう確信する。 すると、途端に重くのしかかっていたものが、ふと軽くなったような気がした。「――み、水珠のことは、私が悪いのです」「みたま? ああ、あの者のことか――何故、そのようにお考えになる?」 彼はその当否を問わず、ただ先を促す。 私はしばらく口を閉ざし、続きを探した。 落ち着いてみれば、それはそう難しいことではないようにも思えてくる。「それは……彼女を――窘めることは、私がせねばならないこと…です、から」 ようやくの想いで、言葉にできた。 それでも、彼に詫びたことにはならない。 これで終わりではない。 続きを口にしなければいけないのに、私は何故か言葉に詰まる。 また俯いてしまう。「――しかし、それではあなたが辛かろう」 どういう意味なのか、分からなかった。「降嫁したあなたにとって、女官たちは唯一のお味方だ。それにあなたは幼かった。あの者は、水珠はあなたの乳母だろう。幼子にとっては母親同然だ」「――もう幼子ではありません」 膝の上で揃えた指先に力が入ってしまう。 不甲斐なさが、口惜しい。「……いつのころからか、私と女官たちの間であなたが板挟みになっておられるような気がしていた――それはやはり気のせいではなかったのだな」 静かな呟き。 彼もはやくから私の到らなさに気付いていたのだ。 それを思うと、頭が真っ白になる。「辛かったろう」 握りしめた私の拳に、そっと遠慮がちに、大きな手が重ねられる。 いたわるような、優しい仕草だった「……辛くなど」 辛いなどと思ったことはない。 ないはずなのに。 重ねられた手の甲に、雫が落ちた。 ひとつ、ふたつ、みっつ―― ひょっとして、涙? 私の――? 驚いてしまう。 どうやら、私は泣いているらしい。 気がつけば、肩も小さく震えている。 どうして? 呆然としてうちに、膝のあたりが少しずつ濡れていく。 ああ、やっぱり泣いているのだ。 まるで他人事のようにそんなことを思っていたら、いつの間にか肩に温もりを感じて―― 気がつけば、私は彼の腕のなかにいた。 体をつつむ温もりに、体中の力が抜ける。 広い胸に額をそっと預けると、そこもとても温かった。