2020年東京五輪エンブレムのコンペティション(設計競技)に参加した立場から意見を述べたい。1位の当選者に発生した創作姿勢への疑念や、組織委の判断による当選後の不透明な修正が指摘されてきた。参加デザイナーとして実に耐えがたい思いであった。さらに今度は特定のデザイナーへの参加要請が不当な行為であったかのように報じられ始めた。審査の本質を見誤らないために、ぜひ冷静な議論と判断を期待したい。
参加者の立場で言うと今回の「公募」は開かれていたと感じている。1964年の東京五輪に始まり、札幌五輪、愛知万博などは全て、数名の指名コンペだった。それに対して今回は、応募資格を満たす104名ものデザイナーで競われた。閉じているどころか前代未聞の開かれたコンペだったのである。
門戸を開放すれば質が高まるわけではない。逆に薄まることが懸念される。フィギュアスケートでも、グランプリファイナルに出場するには実績が必要だし、五輪に出るにも標準記録を超えなくてはならない。審査と競技の精度を高めるためである。精度の期待できないコンペには実績あるデザイナーは参加しない可能性がある。自分に送られてきた参加要請はその点を配慮する文面であった。そこには公募内容は一切書かれてなかった。従って応募要件は公開後の情報から得た。開かれた設計競技を提唱してきた自分は、公募の公開と同時に応募手続きをとった。
応募作の全容にはとても興味がある。商標登録前の応募案は光にかざせないフィルムのようなもので当選案以外は公開されていないが、時宜を得て公開されればその水準が明らかになるだろう。建築設計が構造設計や基本機能、環境への配慮などに多大な思考が織り込まれているように、エンブレムも単なるかたちではない。開・閉会式で敬虔な気持ちを引き出せる求心力、メディアを通じての拡散力、空港や市街空間への展開性や拡張性など、多岐にわたる計画が示されたはずだ。静止画に加え動画への展開も重要である。高密度に練り上げられた応募案は当然、重層的な内容で、案を描いた紙一枚とは程遠い。
審査基準に求められるのは確かな独自性、多用途に展開されてもすり減らない造形力、静止画でも動画でも世界の人々の心を一つにできる求心力、そして何より、世界一を競う競技者たちの卓越性や感動に打ち震える心に呼応できる厳しさと美しさである。万人に愛されると言っても五輪の場合、親しみやすさだけではないはずだ。
基準が明快なら結果は自然に絞られる。テニスの四大トーナメントの最後に残る顔ぶれは似ている。コネや人脈、選手と審判の癒着ではなく、厳正なルールのなせる技で、実力ある選手が必然的に残る。
デザインは人々の心や気持ちを繋ぐものであり、胸中にかざして誇れるものでなくてはならない。特殊な世界に閉じてはいけない。だからこそ、真に力のある案を選ぶ必要がある。審査に専門家の目が欠かせない理由はここにある。
新たな審査委員が発表になった。各界から一流の目利きが集まったのなら、ぜひ明快な審査基準を掲げての審査をお願いしたい。
設計競技を白紙に戻すということは、プロフェッショナルたちの真摯な努力をゼロに帰し、マラソンをもう一度走り直すのと同じである。それでも、デザインの信用をとり戻し、皆が納得するならやり直せばいい。ならばこそ、揺るぎない判断基準を設けてほしい。競技場もエンブレムも、道を間違えたと思うなら一度下山して登り直せばいい。万全を期して頂上に着くことが重要なのだ。新たな密林に迷いこむことがないよう、衆知を尽くして設計競技が健全な方向に進むことを期待している。