終礼が終わり、自分の担任するクラスを後にした氷川紗夜はいつものように化学準備室にこもっている。化学準備室というのは化学実験室の横にある部屋なのだが基本的に誰も入ってこないため彼女にとっての安息の地となっていた。 今日も机に向き合い作業をしていると突然部屋のドアが開けられた。 その直後に、椅子に座った彼女の背後から何者かがいきなり抱きついた。「せーんせっ!」 抱きつかれると同時にふわりと甘い香りが紗夜の鼻をくすぐる。「ノックをしてから入ってと何度言ったらあなたは分かるのかしら?」「えへへー、ごめんなさい」 抱きつかれたことには特段触れずにノックをせずに入ってきたことを咎める紗夜。「そもそもいつもあなたはなんのようなのかしら?」「んー、先生に会いに来てる、じゃだめですか?」 紗夜のことを先生、と呼ぶその少女は抱きついたまま答える。 なによそれ、と小さく呟いた紗夜はようやく少女に離れるようにいった。「というか、丸山さん、いい加減離れてください」「えぇーっ、もうちょっとだけいいじゃないですか」「ダメなものはダメよ」「先生のけち」「ケチで結構」 紗夜から離れてふくれっ面を見せているのが、この学校の生徒、丸山彩だ。 彼女は紗夜が化学を担当しているクラスの生徒で、何故か去年から紗夜に懐いている。「せんせ、なにしてるんですか?」 紗夜と向き合うように机を回り込んだ彩は机に肘を置き頬杖を着くようにして紗夜の顔との距離を縮める。「課題のプリントの準備をしているの。あまり邪魔をしないで」「ふーん、つまんないの」 あまりにも素っ気ない紗夜の態度に彩は先程よりも余計に頬を膨らませた。 そのまましばらくの間、彩は黙って作業を見ていたがやはり飽きてきたのか狭い化学準備室の中をうろつき始めた。「いつも思いますけど、変わったものがたくさんありますね」 そうね、とまたしてもあしらうような短い返事にとうとうしびれを切らしたのか、彩はいきなり話題をふっかけた。「ねぇ、せんせ? 先生は私の事好きですか?」「何を言っているの。あなたと私は生徒と教師、それだけの関係でしょう。それ以上でもそれ以下でもないわ」 想像以上につまらない返事に彩は少し機嫌を悪くする。「先生のそういうとこ嫌い」「勝手に言ってて」「あっ! もう先生なんて知らないもん!」 ふい、と顔を背けた彩には微塵も目を向けず手元の書類に集中する紗夜。 強く出たもののどうしても気になるのか、彩はちらちらと横目でそれを見る。「せんせいのばか」 と、ぼそっと呟いたのを、意外にも紗夜は聞き流さなかった。「教師に向かって馬鹿とはなんのつもりかしら?」「ゔっ……」 すかさず反撃する紗夜に彩は少しひるむ。 そして、それならこれでどうだと言わんばかりの顔で彩はいきなり自分の顔と紗夜の顔との距離をさらに詰める。 少し驚いた表情の紗夜の頬に、彩はキスを落とした。「っ!?」「ふふっ、先生可愛い反応」 突然の出来事に紗夜は声も上げずに顔を紅くしている。 彩はにししと笑いながら、机に肘をついてその様子を眺めている。 と、何を思ったのかいきなり紗夜が無言で立ち上がった。「先生?」 そのまま紗夜はそっと彩の顎に手を添え、彩の顔を上に向けさせた。「えっ!?」 彩は紗夜の行動に驚きを隠せない。 そのまま二人の距離はどんどん縮まり、ついに唇が触れ合った。「〜〜!?!?」 紗夜が彩から離れて見つめているが、あまりの驚きに彩は声を出せない。 その彩の顔は真っ赤だ。 対して紗夜はいつものように飄々としているどころか、少し悪戯な表情をしている。「あまり大人をからかうものではないわ」 と、悪い笑みを投げて後ろに振り向いてしまった。 彩はまだ何が起きたのか把握しきれておらず、自分の唇に残った柔らかな感触を確かめるように指で触れる。 そのまま彩が呆然と立ち尽くしていると、いつの間にか荷物をまとめた紗夜がドアの外に立っていた。「今日はもうここを閉めますよ」 その言葉でふと我に返った彩は、焦って変な声が出てしまう。「ひゃっ、ひゃい!?」 急いで荷物をまとめ、部屋から出て紗夜の後ろに立った。「では、次の授業で。宿題は忘れないでくださいね」「は、はい……」 さっきのことがまるでなかったかのように紗夜は職員室に戻って行ってしまった。 その後彩は家に帰ってもずっとその事で頭がいっぱいで何も考えられなかった。